2014年12月17日 代表

中華民国(台湾)は2度しか行っていませんが
中華人民共和国(大陸の中国)は香港を含めると10回ぐらいは
旅したと思います。
しかし、印象としては2度しか行っていない「台湾」の方だけ、
何故か突出して強い印象と深い思い出が残っています。
というのも、この記事の朱さんのように
日本に対して老若男女を問わず日本びいきの方が
多数いらっしゃるからです。
そして、私がこのブログを書くきっかけになったのは、
「新幹線」という言葉でした。
それと、台湾に対する印象が深くて強烈なのは、
多分に最初旅した時が多感な21歳という年頃であったこと。
そして、まだ戦後余り経っていないという歴史的な背景が
影響しているように思います。
最初台湾旅行をするきっかになったのは、
先輩の奥様の紹介で入会した「全国青い実の会」の中国部長をしていた時のことです。
その会合で机上の空論ではなく、
仲間を集って実際に中国を体験してみようということになり、
当時唯一「中国語」が操れた私に白羽の矢が当たって
8人のメンバーを引率することになりました。
先ほど、先輩の奥様の紹介でと書きましたが、
正確に言うと私が当時下宿していた飯田橋近くのアルバイト先で知り合った
東京理科大学の榎木喬朗(たかあき)氏の当時彼女で
後に奥様になられたユキ子さん
(同じ年生まれだったので敢えてそう呼ばせてもらっていました)
から「全国青い実の会」を紹介されて入会しました。
この会は泉屋クッキーの社長(ユキ子さんが独身の時勤務していた会社の社長)が主宰されていて、
そのユキ子さんが「黒瀬君は中国語ができるのでどうぞ宜しくと紹介されていた」ことから、
社長に良く可愛がって頂きました。
はっきりとは覚えていませんが、
学生のメンバーは会費も取られていなかったように思います。
というか、私の記憶の中では
学生は確か私だけだったように思っています。
そんなご縁で「全国青い実の会」は、
当時中華人民共和国とは国交が回復していななかったため、
中華民国(台湾)に9人の仲間と2週間の研修旅行に出かけました。
大学3年生(21歳)の夏休みのことです。
勿論、当時は1ドルが360円の固定相場制の時代でしたので
相当高い旅行費用だったと思います。
できるだけ費用を安くするため、羽田から台北松山飛行場に飛ぶのではなく、
東京晴海埠頭から那覇港までは「波之上丸」という客船で
丸2日間かかって那覇港に入り、
税関検査(当時沖縄はまだ米軍占領下でパスポートが必要)を受け後、
那覇空港から台北松山飛行場に飛びました。

この写真は、多分台中で撮ったものだと思いますが、
記憶は定かでありません。
那覇空港で搭乗待ちの時、私たちの直ぐ後ろで
女性同士会話が中国語だったことから搭乗前に親しくなっていたため、
彼女がいるファーストクラスに座らせてもらいました。
彼女の名前は苗豊国と言って、
当時台北では名だたる財閥のお嬢さんで琉球大学から
帰省の途中だったようです。
何が気に入られたか分かりませんが、
台北滞在中に2度(一度は自宅に、もう一度は丸山大飯店夜総会…ダスンパーティ)も招かれました。
私たちの旅行団は、着いた当初台北に3泊、それから台中に2泊、高雄に2泊して
最後にまた台北に2泊したと思います。
その台北から台中に向かう特急列車(観光号という名称)で
各車両に1人いる服務員(日本で言えば車掌ですが、飛行機のCAみたいな仕事)で
私たちの担当だった王淑媛さんと中国語が話せると言うことでまたまた仲良くなりました。
台北に戻った後も、仕事仲間の丘宝琴さんも交えて、
私たちの仲間も市内観光の案内などをご一緒して頂きました。
しかし、8日間の日程はあっという間に過ぎてしまい、
またまた沖縄に戻って一泊してからまた船に揺られて晴海埠頭に戻ったというわけです。
この8日間、台北・台中・高雄を問わず、
日本語が話せる高齢者が多数いらっしゃって我々若者は
盛大な歓待を各地で受けることができました。
何故、「新幹線」に反応したかというと
私が当時乗った「観光号」は今の台湾では
現在走っている「新幹線」に代わり、
日本の技術協力でできたことを知っていたからです。

この方が王淑媛さんで、確か当時22、3歳ぐらいだったろうと思います。
その方の裏書きが、次の写真です。

時代が滲んでいます。それもそのはず、46年も前のものですから…!
さて、そろそろ前編の終わりにしたいと思いますが、
高雄ではどなたかの紹介で日本人ゆかりのお寺を訪ねたときの和尚様と
記念撮影をした写真で本編の終わりとします。
次回は、45年後に行った今の台湾でのエピソードと
近代的な台湾をご紹介します。
