2014年11月24日 代表

私は、30歳代初頭から

「健康オタク」とも思えるような取り組みを始めました。

その最初のきっかけは今から約40年前の父の病気発症でした。

私たちが結婚した直後の時期

父は、まだ田平町役場の助役をしていましたが、

64歳の時に「尿道結石」ができ、血尿が出たことから

福岡市舞鶴にある公務員共済の「浜の町病院」に入院しました。

その時は、対処療法で治癒したのか、程なくして仕事に復帰しました。

それから1年後に役場を退職すると

今度は田平町社会福祉協議会の理事長に就任し、

5年ぐらい務めたでしょうか?

その後は平戸口駅の近くの小さな事務所を借りて行政書士の仕事を始めました。

私がトヨタを辞め、大学に戻って教員免許を取得し、

公立学校の期限付き教諭をしていた頃に再発しました。

71歳の時に今度は「膀胱腫瘍」ということで

「浜の町病院」に再入院しました。

その時、私は「この際、泌尿器科だけでなく

内科など総合検査を受けてみるように!」進言しました。

しかし、父は前回お世話になった泌尿器科の先生を信頼し慕っていて

「今度もこの先生にお世話になる」と言い張ったのでした。

何故、私が総合検査を受けるように勧めたかというと

父が病気になる前に私の息子が

西諌早ニュータウンの森小児科で「単なる風邪」と診断されたのに

一週間後には「足がパンパンに腫れ」、

風邪の症状でないことが素人目にも明らかでしたので

私は諫早総合病院に連れて行きました。

すると、担当の先生は「即入院です。これは川崎病ですので、

生死に関わるかも知れません」と真顔で言われたのでした。

当時家内は公立学校の教員をしていたので

家内が付き添って緊急入院をしました。

素早い対応が功を奏したのと担当医師が川崎病の権威だったため

その後息子は劇的な回復ができ、今では社会人として元気で海外を飛び回わる仕事をしています。

その時の経験と私の経験が病院、医師、薬をほとんど信用しない方向に向かわせました。

父が、私の忠告を聞き入れてくれていたら

75歳で発症した「膵臓癌」は防げたかも知れません!

そして、まだまだやりたいことが一杯あったのに

76歳で亡くなりました。

だから、「信じるものは救われる」とは全然思えないのです。

逆に、「おぼれる者はワラをも掴む」と言いますが、

過去に私は何人もの同期生や友人が志半ばで

若くしてあの世に召されていった悲しくて苦い経験がたくさんあります。

私は医者はもともと万能ではなく、

自分の学生時代に学んだ「西洋医学」を信奉しているに過ぎず、

その後に出てくる新たな知見も学会に出て勉強しているにも関わらず

実際には役立てていない実例をロータリー活動を通じて知っています!

ましてやそれが商売ともなれば、

高額な「医療」を施したり、高価な「薬」を

数多くの病人に売りつけなければなりません。

しかも、現代では政官財、マスコミ、そして御用学者まで加えて

素人の不勉強を良いことにして「洗脳」までやっています。

だから、まんまと餌食になるのです。

それとは反対に私の母は85歳の時

一人で住んでいた頃私の実家の風呂場のタイルの上で

足を滑らせて「大腿骨骨折」をしました。

近くに住む従兄弟が田平町の青洲会病院に入院させてくれましたが、

その後が大変でした。

母は、以前から「医者」と「薬」が大嫌いで

「大腿骨骨折」をしているのに「金属」を添えた手術はせず

自分で治してみせると言い張りました。

しかし、主治医の説明を聞くと

どう考えても「金属」を添えた手術しか

回復出来る術がないことは明らかでした。

そこで、私は母を説得するのに主治医に

3つの提案をしました。

1 どんな検査をして、どんな目的でどんな薬を

どれだけ使用したかを明記する

2 看護日誌のコピーを頂く

3 主治医が書かれたカルテを頂く

これを1週間に1回、主治医・院長の署名付きで私に郵送してくだされば

母を説得して手術を受けさせますと申し上げました。

その先生は、院長に相談することもなく、

医療に関しては「ど素人」とも思える私の提案を即答で

「分かりました。仰るとおりにいたします!」と答えられたのでした。

その後、母はリハビリも真面目に取り組み、97歳の今も元気に生き延びています。

医者を信ずるために「私なりの医学上の知見」がなかったら

その時そんな知恵は浮かばなかっただろうと思います。

同じ病気、同じ症状でも医者によって正反対の知見を述べ、

全く違う「治療」をする例を数多く経験しています。

私は、42歳からの8年間を除けば

ずっと「走ったり」「歩いたり」してきましたので、

膝が痛くなったり、背中が痛くなったりはしょっ中で、

数多くの整形外科にお世話になってきました。

しかし、教え子の小出光秀君に紹介された

長崎蛍茶屋の「山口和博」スポーツドクターと北村理学療法士に出会うまでは

レントゲンを撮っては、「軟骨が磨り減っています。

消炎剤で経過を見ましょう」という診断と処方でした。

しかし、山口先生の見立ては全然違いました。

年齢と共に筋肉のバランスが崩れてきているので、

「筋肉」を強化してバランスを取り戻す以外に

「走ったり」「歩いたり」することは

難しいでしょうと言われたのでした。

そして、先生が良いでしょう「卒業です!」と言われるまで

2ヶ月間リハビリに週1回は通い続けました。

通い始めたのが6月で卒業したのが9月でしたが、

その年の12月に行われた「ホノルルマラソン」に出場し、

記録更新こそできませんでしたが、無事完走しました。

また、翌年5月の「ウルトラウォークラリー」にも出場して

一度も転倒することなく、第14位でゴールしました。

事ほど左様に精進を惜しまない名医とヤブ医者では違うのです!

だから、私は素人でも「医学的知見」を自分なりに学ぶ必要があると思うのです!

こんな経験から、自宅にトレーニングジム並みの用具を揃えて

毎週月水金は下半身の、火木土は上半身の「筋トレ」も

日課に取り入れ精進を怠らないようになりました。

だから、「膝」が痛むことは今ではうそのように消えてなくなりました。

誰をどれだけ信じるかは、今回述べたような自分自身と身内の体験や

私自身の食事、運動、そして知恵などに左右され、

結果的には「自己責任」で取捨選択する以外にないのです!

私は、これまでも、これからも自分が学んだ良かれと思うことを

自分の体で「人体実験」を繰り返しながら

医者や薬の世話にならない「ピンコロ人生」を全うしたいと思います。

「信じるものは救われる」などと呑気なことは言ってられません、

今日も新たな知見を学び続ける必要があるのです!

私は「歴史」は人の作り上げたもので、

自分の「体験」とは無縁なので

愚者と言われようが高慢ちきと言われようが、

何と言われても自分の「体験」と「知見」を信じて

生き続けたいと思います!



2014年11月20日 代表

私が「みのる塾」に本格的に関わり始めた時期は

まだ、無線ランはおろか、「Wi-Fi」も「ブルートゥース」も

勿論ありませんでした。

平成14年3月に長崎日大を54歳で早期退職をすると

その退職金を元手にテナントを借り増して、

高校生の学習環境を整えたり、

スタッフが使っていたワープロ専用機をPCに取り替えたり、

2階、3階のパソコンの有線ラン化を進めたり、

学習や事務の能率化のためにスペースを拡充したりしました。

しかし、そういう設備投資も時代の変化の荒波の前には無抵抗で

どんどん時代遅れになっていきました。

そこで、2010年に「映像個別授業」の実験を

喜々津駅横の山崎ビルで私共の規模から言えば無謀とも思える投資で始めましたが、

この実験は僅か8ヶ月で頓挫してしまいました。

そして、そこで使っていた機器を「みのる塾」本校に引き上げて再チャレンジを試みましたが、

この地域のニーヅに合ってなかったのか、矢張り3年ほどで断念しました。

そうこうするうちに「少子化」の影響から塾生数も頭打ちになってきましたので、

今年の3月3階のテナントを返却して開業以来の大リストラを敢行しました。

それと同時に、今まで「有線ラン」に拘っていた電子機器の接続を

無線ランのWi-Fiに全て切り替えてしまいました。

これで塾内や自宅で使う電子機器は

全て「無線ラン」でやりとりできる環境が整ったわけです。

しかし、「ブルートゥース」という言葉は、若い人たちにはなじみ深い言葉でしょうが

私たちの年代にはぴんと来ない概念です。

私は、初期のiPhoneから使っていて文字入力が不便だったので、

持ち運びできるキーボードを買って以来

このブルートゥースの恩恵に浴してきました。

皆さんも、一度「ブルートゥース」の便利さに触れてみられませんか?

「Wi-Fi」とは、また違う持ち味があります。

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2014年11月13日 代表

日本でも

飲食店で食べ残したものをテイクアウトする習慣は、

特に宴会の場合はかなり定着してきたように感じるが、

普段少人数で行くレストランや居酒屋での飲食などでは

余り多いとは言えない。

特に、「刺身」のような生ものについては、

夏場に「食中毒」が発生することもあるため、

断られるケースが多い。

しかし、この「doggy bag」は

元々米国で人が食べ残した残飯を無駄にしない目的から

家に持ち帰って「犬」に食べさせたことが起源と言われている。

だから、それを人間が食する場合は「自己責任」が前提。

つまり、例え食中毒になっても

食べた人が悪いということになり、

日本のように食事を提供した側が

悪いということにはならないらしい。

ここら辺にも、食に対する彼我の違いを

垣間見た思いがする!

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2014年11月13日 代表

去る11月8日(土)は、

佐世保市木原にある臥牛窯へロータリー交換留学生のサクラを連れて

第13代臥牛から第14代臥牛へと連綿と続いてきた臥牛の伝統を引き継ぐ

「襲名披露式」に出席してきました。

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式典は、株式会社臥牛窯の代表取締役を務めることになった

横石次郎の挨拶から始まりました。

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従兄弟同士で小さいときから付き合ってきましたので

次郎ちゃんと呼び習わしていましたが、

堂々とした風格で当時の呼び方は通用しないと思いました。

続いて、当日一番のクライマックスは、

何と言っても「襲名」にあるわけでして第13代から第14代に

代々伝わる家宝の手渡しでその役割交代を告げられていました。

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そして、引き続き第14代を襲名された横石午郎氏が

皆様へのご挨拶となりました。

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彼は次郎氏よりさらに歳が近い(7歳違い)ので

「午郎ちゃん」、「孝志郎兄ちゃん」の間柄で通してきました。

しかし、この日を境に「臥牛先生」と呼ばないといけないと思いましたが、

彼は、相変わらず「孝志郎兄ちゃん」と呼んでくれています。

どうしたら良いでしょうか?

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第14代のご挨拶の後は、第13代が

父親の第12代から「現川焼」再興の夢を託されて来た由来や

これまで兄弟で「臥牛窯」を支えてきた50年の歴史を振り返って

思い出すことなどを披露されました。

第13代は、先の第12代から始まった「現川焼」の刷毛目の技法を受け継いで

兄横石陞治(松翁)が轆轤成形を担当し、

弟横石嘉佶が刷毛目でデザインを担当するという

2人体制で伝統を受け継いできました。

しかし、新しい時代には新しい発想と新たなチャレンジが必要と考えられたので

横石午郎へ襲名することになったわけです。

私と臥牛との関わりは

母の妹である和子叔母さんが横石陞治に嫁いだことから始まりました。

まだ、私が小学低学年の頃だったと思います。

そして、中高生になって臥牛を訪れた折りには

遊びの一環として陞治叔父さんに轆轤を回させてもらったり、

嘉佶叔父さんには絵筆を使うまねごとや美術書などを見せてもらったりしていました。

そういう経験が長崎日大で勅使河原和風先生に師事して

「勅使河原和風流」の生け花免許取得に繋がったのだろうと思います。

次郎社長とは話す時間が取れませんでしたが、

14代の午郎氏は奥様と一緒にご挨拶に見えられたので

その時一言二言「将来構想」について言葉を交わすことができましした。

イギリスやアメリカへの展開も考えているとのことでしたので

今後が楽しみです。

私たち夫婦も何か協力できることが出てくるかも知れません!

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当日は、式典でしたので

展示即売はしていませんでしたが、

招待されていた方たちは主に14代の作品群に

目を光らせられていたように思います。



2014年11月11日 代表

私が毎日「有酸素運動」に励み、

月水金は「下半身の筋トレ」を行い、

火木土は「上半身の筋トレ」を行っている目的は

QOLを高めるためにやっているのです。

実際に継続していると

私の両親の同じ年代頃と比較すると

格段に若々しく活動的な自分であることに

驚いています。

これを70代、80代と続けていけば、

目標としている「センテナリアン」や「ピンコロ人生」も

可能だと自信を深めている昨今です!

「食べ物」や「飲み物」も非常に大事ですが、

それらから摂りこんだ「栄養素」を

全身の細胞の1つ1つ、

つまり末梢細胞まで行き渡らせている

「毛細血管」が正常に機能するような努力を継続していかねばなりません!

それがないと、「本末転倒」となってしまいます!

その点からも「筋トレ」をやることと「有酸素運動」を継続することは

私にとって欠かせない日課となっています!

ふくらはぎが「第二の心臓」と言われている所以も

納得できるはずです。

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