前職を辞めた後、
友人の紹介でフィリピン旅行を
二度ほどしました。
その目的は、私が大学卒業後に職を転々としたこと、
54歳という若さで学校を早期退職したことも重なって
年金支給が少ないという理由から
少ない年金でも貨幣価値が高くなる
東南アジアで暮らすのも悪くないと考えたからでした。
何をするにしても書籍を始めとする
活字情報から入る私は
昔から馴染みのあった「フィリピン」から始めました。
「Brexit」という単語をご存知ですか?
これは、イギリスが国民投票の結果、
EU離脱を決めた後に生まれた造語で
「Britain」と「Exit」を掛け合わせたものです。
まあ、それほど衝撃が大きかったという証でしょう。
英国は、その国名(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)が示すように
元々政治家、為政者、商売人などが政争の結果として
寄せ集めた国家だった訳です‼️
現代国家となった今もブリテン島のイングランド、スコットランド、ウェールズ、
そして北アイルランドとそれぞれの主義主張があって
一枚岩ではありません。
「内憂外患」、果たしてかつての大英帝国の末裔たちは
どこに舵を取っていくのでしょうか?
私のような一民間人は呑気なことを言っていますが、
イギリスで商売を展開している企業にとっては
EU離脱の波紋や余波は
私たちの想像を超えたものがあります‼️
揺り戻しを含めてまだまだ何が起こるか分かりません⁉️
私は前職を54歳で早期退職すると
退職記念と称して韓国からニュージーランドへ。
そして、翌年からはフィリピン、マレーシア、ベトナム、タイ、ラオスなど
アセアン諸国を旅してきました。
その意図は、大学卒業以来職を転々としてきたので
年金を上手く運用するため
日本と1/5~1/3の物価格差のある国を
リサーチしていたというわけです。
しかし、国民性・親日度・食べ物・宗教・医療体制・ビザなど
いろんな角度から検討する必要がありました。
一番の問題は、その国に根を下ろした時に
私のことを身内と同じようにサポートしてくださる人脈をことです。
2010年3月にベトナムで「日越友好ダナンハーフマラソン」を契機にして
現地在住歴の長い中村さんと知り合ってからベトナム人脈が急速に展開していきました。
長崎でも「NPO法人ベトナム友好協会」に入会して
ベトナムに戻った長崎OBのベトナム人財もできていきました。
ところで、本題のアセアンの街角と交通事情ですが、
公共交通機関、特に地下鉄やモノレールなど他の交通機関と接触しない
交通手段のある国は、「交通混雑」はそれほどでもありません。
しかし、そのインフラが整っていないベトナム・タイ・ラオスなどでは
所得水準のこともあって「バイク」のように簡便な交通手段が大勢を占めています。
ベトナムに最初行ったときホーチミンやハノイでは
うんかのように押し寄せるバイクに最初は圧倒されたものでした。
しかし、郷に入れば郷に従えで
現地の人たちの様子を観察していると
そのバイクの洪水のような流れを
どうやったら渡れれるかというコツが飲み込めてきました。
東南アジアだけでなく、国情の違いもありますが
発展途上にある国は国民総生産や一人当たりの国民所得などとの関係からインフラの整備が
早くから整備できたところと遅れ遅れになった国とで事情は様々です。
また、私は海外にいてもウォーキングなどを日課にしていますので
その国の交通事情は一番気になるところです。
だから、その点からもベトナムに居を構えるとなると
バイクに邪魔をされずに「歩くこと」のできるビーチや川沿いに歩道が整備された
「ダナン」が第一候補となるわけです。
こんなことを連想させたのは、「アセアン道路事情」という
6月9日の日経記事からでした。
私の卒業した二松學舍大学は、明治10年に
福澤諭吉の慶應義塾、中村敬宇の同人社と三大塾の1つとして創立され、
来年で創立140年という節目の年を迎えます。
しかし、同窓会の組織として「松苓会」という名称を使って活動を始めたのは、
昭和6年の二松學舍専門学校の第1回からでした。
だから、松苓会(同窓会)としての周年事業を
85年にして初めて今年開催したというわけです。
私も2万5千人という数多い卒業生の中で
10数年間、長崎県支部長を偶々させて頂いたお陰で
今回感謝状を頂きました。
しかし、この授賞式典や懇親会以上に私が感動したのは、
水戸英則理事長の「松苓会85周年記念講演」でした。
この式典が開催される前に鶴蒔靖夫氏の書かれた『二松學舍大学の挑戦』という書籍を
読んでいたからでした。
水戸英則理事長は、福岡県の出身で九州大学経済学部で学び、
卒業すると、日本銀行に入行。
入行後は国庫局、外国局と進んで、その4年後にはフランスに国費留学を経験しています。
53歳の時に肥後銀行の常務取締役となり、
その時の縁から熊本学園大学で「金融論」を教えることになり、
教育者としての意識ややる気が芽生えたそうです。
8年間の熊本生活に終止符をうち、
故・元日銀総裁の三重野康が特別顧問だった二松學舍に奉職することになりました。
2005年に常任理事・評議員を経て2011年に
理事長に就任されました。
その経過以上に私が注目したのは、
学生を教えたり、束ねたりすることではなく、
二松學舍全構成員の目指すべき指針として
「N2020PLAN 長期ビジョン」を策定されたことにあります。
この資料の隅々を見ると
水戸英則理事長がどんなことを目指されたかが分かります。
そして、それを「絵に描いた餅」にしないための方法論も
素晴らしいと思いました‼️
そして、方法も緻密ですし、
どこをどうすれば達成できるかも明確です‼️
この全部の資料をお見せすることはできませんが、
あと一つだけ触れておきたいことがあります。
それは私も前職の長崎日大で使いましたが、
難攻不落の「教職員の意識改革」を
どう進めていくかということでした。
書籍にも資料にも出ていませんが、
水戸英則理事長は「ボトムアップ」というキーワードで表現されました。
要するに、30~40歳代の職員で
次代を背負って立つ問題提起をさせたことです⁉️
教職員という職種は、どんな結論が出るかより
自分がそこに参加したという当事者意識を
大事にする特徴があります。
その点を上手く活用されているところが流石です‼️
その結果、この「N2020PLAN」を基盤にした教育改革は
格付投資情報センター(R&I)の財務格付で「A-(シングルAマイナス)」という
高い評価を受けています。
もっと詳しくご存知になりたい方は、
前述した『二松學舍大学の挑戦』という書籍を
ご参照ください。
そして、時代は次の140年ということに意識が向かっています。
来年度には「世界へつなぐストリートを、世界をつなぐストーリーを」というキャッチフレーズで
「都市デザイン学科」という新たな学科ができたり、
「漱石アンドロイド」を利用した
新たな宣伝方法も陽の目を浴びますので、
益々二松學舍から目が離せません‼️