2015年11月24日 代表
私は、物心ついたときから母親から
我が家はお寺の檀信徒だということを
事ある度に聞いていましたので
小さい頃から「仏教徒」であることは
自覚していたように思います!
しかし、私が住んでいた実家のある地域の周りは
カトリック信徒が多い地区で、毎週日曜日には家族総出で
楽しそうに教会に通う姿を見ていたのです。
一方、仏教徒の我が家は、
何か法事がないとお寺に出かけることはありません。
だから、子供心にも不思議に思っていました!
そんな中にあって母親だけは信心深く
何時もお寺に通っていて私にお寺に行くことを熱心に勧めていました。
「親の心、子知らず」と言いますが、
そんな態度が一変したのは、
中学時代から大好きだった理科、
中でも一番興味のあったのが「物理」でしたが、
その物理の授業中に教科担当の椋本先生が
脱線して話されたことが
お寺に行くきっかけになりました。
「鰯の頭も信心から!」という諺がありますが、
正にそれを地で行った感じでした。
椋本先生は、「受験勉強で一番大事なものは何だろうか?」と
私たちに質問されたのです。
大半の級友は「必死に勉強して学力をつけることだ」と思っていました。
しかし、常識的な答えではないだろうと思っていた私は、
思わず、「先生、分かりません。教えてください!」と言っていました。
そしたら先生は「集中力と持続力を養うことが受験に一番大事だ。」
「これは志望校に合格すること以上に
一生使える財産になる」と言われたのです。
でも、その方法論が分からなかった私は、
「どうやったらその抜群の集中力と持続力をつけることができるのですか?」と
2回目の質問をしていました。
すると先生は、「坐禅をしたら良い」と答えられたのです。
この時、初めて私は自分の意志でお寺に行ってみようと思い、
聴いたその日の学校帰りに是心寺に寄って
学校で聴いた話をそっくそのまま話をして入門をお願いしました。
そして、故辻宗哲老師の門人となったのです。
何をどう話したかは今となっては覚えていないのですが、
和尚の眼光鋭い目の中に、一方でどこまでも吸い込まれそうな優しい眼差しが
強烈に残っていて今でもその眼差しが時々私の脳裏に蘇ります。
入門をお願いした時期は、
17歳高校3年生の受験真っ盛りの2学期でした。
それ以来、毎月3泊4日の「坐禅会(興禅会と名づけられました)」には
受験の日を除いては必ず参禅するという変な高校生でした。
でも、坐禅会で宿泊する日は、
私専用の一室を借りて受験勉強もちゃんとした上で
お寺から学校に通うことを繰り返していました。
その後、大学生になってからも京都本山の妙心寺で
「青年幹部候補生」の修行も受けましたが、
元々宗教的な興味からの修行というより
「精神的な在り方」を探求するための修行でしたので
会得するとその後は余り興味を示さなくなりました。
妹や弟、そして伴侶となった家内のほうが
私以上に余程信心深い信徒になりました。
それにしても、高3のあの話と坐禅の経験がなければ、
その後様々な場面で力を発揮している
「集中力」と「持続力」は養うことはできなかったと思います。
そして、先日の小中学生が坐禅している後姿を見ていると
かつて「坐禅」に必死で取り組んでいた自分がいたことを思い出して
目頭が熱くなるほど嬉しいなあ、有り難いなあと思った次第です。