私と「臥牛窯」の関係は、 母の妹の和子叔母が横石陞治(第13代臥牛)に嫁いだ時に始まりました。 私がまだ小学生だった頃のことです。 和子叔母は嫁ぐ前は、 田平のわが家に同居していて 確か江迎警察署に通っていたと思います。 そして、私の記憶にはっきりと刻まれるようになったのは、 高校生になって父の名代として 臥牛や牛石の岩永(母の弟の家)に盆暮れの挨拶を 務めるようになってからでした。 当時、バイク通学をしていましたが 父が私に買ってくれたバイク(HONDAのCB55というスポーツバイク)に乗って 佐世保市木原の臥牛窯まで約50kmもの距離を ノコノコ出かけていました。 お目当ては、当時臥牛にあったYAMAHAの250CCの大型バイクに乗ること、 窯場で「轆轤(ろくろ)」を回して陶芸の真似をすること、 弟の嘉佶さん(第二次第13代臥牛)の部屋で美術書を眺めさせてもらうことでした。 そんなたわいない遊びの一環としてやっていたこと(後者2つ)が 後々、生け花の免許取得(勅使河原和風流)に繋がるとは 当時は、全く考えてもいませんでした。 ところで、臥牛窯の作品群を意識し始めたのは 長崎日大の教員になって身分が安定した頃からでした。 それまでは、叔母に頼んでこっそりと 高価な作品を頂いて帰るという姑息なことを繰り返していました。 第13代は、最初陞治叔父さんが県の無形文化財になったころに 12代の父親から襲名したように思います。 そして、何年か前に弟の嘉佶さんに第13代を譲り、 自らは横石松翁と名乗りました。 臥牛の「現川焼」の再興は、12代の父親から受け継いだものでしたが、 兄の陞治(第一次13代臥牛)が轆轤で成形し、 弟の嘉佶(第二次13代臥牛)刷毛目技法で鷺、梅、月など様々な文様を 生み出しては世に送り出すという分業体制で発展していきました。 そして、その2人の臥牛の下で 長年修業を続けていた陞治叔父さんの長男の午郎が平成26年11月8日に 第14代を襲名することになりました。 私にとっては従兄弟なのですが、 小さい頃から兄弟のように付き合ってきましたので 、彼は今でも「孝志郎兄ちゃん」と呼んでくれていました。 しかし、流石に第14代臥牛を襲名すると そういう関係は相応しくないので 「孝志郎さん」と「臥牛先生」の関係でありたいと思います。 そして、父親の陞治さんや叔父さんの嘉佶さんには出来なかった 新たな時代に相応しい新たな作陶分野で 活躍してほしいと念願する次第です! 11月8日の襲名披露宴には喜んで出席したいと思います。












