長崎日大に勤め始めたのは
公立の鹿町中学校で産休補助教員を終え、
長崎西校と長崎北高式見分校を掛け持ちしていた
期限付き教諭の口がなくなってからでした。
当時長崎日大高校の校長先生は
私が猶興館高校(平戸市)にいた
3年間の校長先生でもあって
運命的な出会いにご縁を感じた私は
29歳から長崎日大高校に
勤め始めました。
高校時代のことを知っていた
(バスケ部、新聞部、生徒会に所属)
玉城校長先生が最初に勧められたのは、
職員チームの「走ろう会」に入ることでした。
最初の2年間は「期限付き採用の常勤講師」で
暇を持て余していましたので、
迷うことなく「走ろう会」に入って
先輩教師たちと毎日トレーニングをしているうちに
直ぐ仲良くなり体型もスリムでした。
この時から41歳までは、
何時も走っていましたし、
諫早北高駅伝にも11年連続で出場していて
写真でご覧の通りスリムな体型を維持していました。
この頃11年間(41歳まで)は
体重は、増えても63kgぐらいだったと記憶しています。
長崎日大の明倫館の寮監をしている時までは
この体型を保っていましたが、
寮を止めて学校に戻ると同時に長崎市石神に引っ越した時から
歯車が逆回転し始めました。
あれほど運動を日課にしていた私が
担任をやると「学級保護者会」を組織して交流会を開いたり
長女が通っていた幼稚園の保護者会長を務めていたので親睦会を
開くなどしょっちゅうでした。
また、長崎に高校時代の親友2人YI君とSF君がいて
良く家族ぐるみで集まったり、会食をしたりしていました。
また、毎週末は宴会が入る、
入らなければ知人の経営するスナックに遊びに行くなどという
不摂生な生活を続けていた時代です。
ご覧の通りの「メタボ体型」になるのに
時間はかかりませんでした。
ピーク時は体重が89kg、ウエストも1mを軽く超えていたと思います。
典型的なメタボでした!
しかし、2002年の写真撮影時は
まだ少し軽くなっていた時代ではないかと思います。
それより前49歳の時に
長崎日大の校門からの上り坂で
呼吸が苦しくなって「成人病センター」に通った時に
一時的に危機感が募りました。
しかし、軽くなると「元の木阿弥」
リバウンドで次の50歳でも
また成人病センターの世話になったのでした。
流石にこの時は覚悟を決めて
元から治そうと決断して
自宅の周囲をとぼとぼと歩くところからスタートしました。
体重が次第に落ちて、筋力が戻ると
欲が出てきます。
最初は、距離が伸びていきました。
次に、徐々に速く歩きたいという欲望が湧いてきました。
そして、各種ウォーキング大会に
出場するように変化していきました。