今日は、長崎日大の写真を交えながら
卒業生に懐かしいお話をしてみたいと思います。
今日日曜日は、トレ-ニングメニュ-が
本来であれば「20kmLSD」にしていたので、
ランニングで長崎日大の写真を
撮りに行く予定にしていました。
しかし、フェイスブックにも書いたように
これから後の日程が押しているので
車で出かけました。
これは、言わずと知れた「長崎日大」の創立者
故永田菊四郎先生(長崎県平戸市出身)の銅像で
登校時・下校時は挨拶させられたものです。
銅像に挨拶するのが
嫌だった卒業生も多数いただろうと思います。
私は、国語科の教員として
漢字統一テストで合格できなかった生徒に
正座を強制するという無茶なことをした場所でもあります。
玄関の脱化箱横を通り抜けて中庭に出ると
今は人工芝の広場になっていますが、
昔は「軟式庭球コ-ト」になっていて私も庭球部員と
良く汗をかいたものです。
ここは、第1体育館の前です。
今日は、色んな学校から練習試合に見えていたようです。
卒業式・入学式・壮行会・講演会・文化祭などの
行事に利用される「講堂」みたいなものです。
日大を退職した後も、
私は入学式と卒業式は来賓として
10年間欠かさず出席しています。
ここは、長崎日大生の胃袋を賄ってきた、
そう弁当を持参できない先生たちも食べることの出来る
安くて美味しい食堂です。
ここでも、様々な思い出があります。
この建物は、昔1回の左側が柔道場で右側が剣道場で、
K先生やH先生に可愛がられた卒業生も多かったと聞きます。
2階は、空手道場で今も使っているのでしょうか?
今は、私が辞めた後の創立40周年のときに
スク-ルバス駐車場の敷地に
下がバスの駐車場で、2階・3階が武道館が建ちましたので
随分私がいたときとは様子が違っています。
この建物は、今は1号館と呼んでいますが
卒業生に懐かしいのは「南校舎」と言う呼び方でしょう!
現在の建物は、随分リニュ-アルされているので
大半の卒業生には馴染みがないかも知れません。
この建物は、現在は2号館と呼んでいますが、
多くの卒業生に懐かしいのは「北校舎」という呼び方でしょうか?
時計台の上には校歌にも入っています「鐘楼」も
見えます。
今も変わらず、時を知らせているのでしょう!
この写真の左側の建物は平成3年4月に開校した
長崎日大中の建物で、3号館と呼んでいます。
私も開校準備委員の一人として
建築設計や運営システムなどの大元を作る段階から
元教頭のS先生たち十数人と立ち上げに
奔走しました。
中でも生徒募集のため、
スク-ルバス通学範囲の塾訪問を
関係する先生方にお願いし、
夏の暑い盛りも2人一組のペア-で
回ったことが忘れられません!
道路側から見ると煉瓦調の建物と色彩が
嫌でも目を引き付けます。
そして、次にお見せするのは
私が日大に奉職するようになってから
直ぐの昭和56年に家族を巻き込んで仕事をするようになった
教育センタ-明倫館です。
この時は、まだ30歳と若かったので
理想に燃えていました。
公立学校の現役の教員だった家内を辞めさせて
明倫館の寮母になってもらったわが家にとっては大変な時代でした。
明倫館も前年度から準備委員として
建物の設計からタイルの一枚の選択まで携わりました。
一番手前が私の住んでいたA棟で、
4LDKで今は18畳で書棚も私の要望で
フルサイズのあつらえでした。
裏に回ると当時の名残が少し残っています。
ところで、明倫館の前年までは学校の敷地内にあった
至誠寮や工業団地内にあった向学寮の寮監もしました。
今は、学校敷地内のグランドを覗いても
昔の至誠寮の合った場所は平地になっていて
その面影も残っていません。
教育センタ-明倫館は、
今も寮の機能があり、
進学寮として、あるいは野球部の寮として働いていますが、
その他に日本大学の通信教育の学習センタ-としての機能もあります。
私も一時「英語の免許」を取ろうして
学んだ時期がありました。
今日も通信制の皆さんが会議室で
学習会をやっていました。
兎に角、明倫館はわが子たちも一緒に
8年間苦楽を共にした思い出の場所ですので
時々夢の中に出て来ることもあります。