私は引越しが趣味ではありませんが、
学生時代から今に至るまで
何度も「住まい」を代えて来ました。
余りにも回数多く引越しをしましたので
今回は長崎日大に
お世話になった後からに限定して
お話したいと思います。
昭和52年(1977年)、丁度30歳の時に
長崎日大に勤め始めました。
その頃家内は公立学校の教員として
平戸の実家で暮らしていましたので
私は単身で諫早に住むことになりました。
今は若葉町というところに
36年前には「工業団地」の宿舎みたいなのがあって
ただ同然のぼろあばら家(1年)からスタートしました。
その次は、乙女石(確かこれを「めおといし」と読ませたような?)
小船越の御館山の直ぐ下の借家に約1年いました。
それから家内が西諫早小学校に転勤してきたので
長崎日大に近い馬渡町の9番地に
本格的な借家を借りました。
今日その場所に行ってみたのですが
元の家は建て替えられていて
「岡本」さんという方が住んでいらっしゃいました。
久々振り通りましたので、
家が建て変わっていることすら知らず、
時が過ぎ去ったことをひしひしと感じました。
しかし、周囲にはまだ当時から
親しくしていただいた方たちも
大勢住まわれています。
この後、昭和56年7月(1981年)になると
東大川をはさんで対岸にある
長崎日大の教育センター明倫館の寮監棟に
引っ越したのです。
明倫館と長崎日大の距離は
約1kmぐらいでしょうか?
目と鼻の先と言っても良いくらいの近距離に
あります。
ところが、ここで1つ問題がありました。
それは、川1つ挟んでいるのですが
小学校の校区は明倫館の場所は
真津山小学校の校区になるのです。
子供たちは川向の馬渡町9番地に住んでいて
幼稚園から西諫早の地区センター内に
通っていたので「西諫早小学校」に行きたいと
言いました。
その時役に立ったのが
馬渡町9番地に住んでいたときに
色々と町内会のお手伝いなどをしていたお陰で
「校区外申請」が出来たということです。
しかし、長女が西諫早駅から
長崎の純心中学校に通うようになって
また事情が変わってきました。
体力的に劣る長女が「汽車通」に
耐えられないことが次第に分かってきました。
純心は、JRを浦上駅で降りた後も
市電で長大前まで行き、
長大キャンパスを通り抜けて
やっと到着するという不便さでした。
その頃一方で私が
明倫館から学校の職員として
担任に復帰するという話が持ち上がっていましたので
それを機に長崎に居を移すことにしました。
長崎市石神で3年間借家住まいをしました。
長女は歩いて10分ぐらいだったでしょうか?
長男も同時に西諫早小学校から
長崎市立高尾小学校に転校していましたので
歩いて5分という便利さでした。
そして、長男が青雲中学校に進学すると同時に
喜々津団地に家を作って住み始めたのが
平成3年4月のことでした。
この家ですが
今は西宮さんという方がお住まいです。
というのも、平成9年に売却したのです。
35年という長期のローンが計算してみると
長崎日大を辞めた後もずっと続き、
毎月だけでなく、ボーナス時の支払など
後々重くのしかかってくるということに気づいたからでした。
今でもこのときの判断は
間違ってなかったと思います。
その後、直ぐ裏の借家に引っ越しました。
今は別の方がお借りのようです。
そして、平成12年から今の松岡さんの借家に住まわせてもらい、
13年が経ったというわけです。
この家の横は空き地です。
そこには、最初様々な雑木など不要な立ち木が
沢山植わっていましたが
自由に使って良いということだったので
私たちが耕運機で耕したりして
今の「家庭菜園」があります。
その後中里に新たに百坪の農園を借りたので
今は自宅横の家庭菜園は余り機能していませんが
ちょっとした直ぐ採れる「野菜」づくりなどに
適しています。
それと何と言ってもここが良いのは
梅の木が大小あって
自由に収穫できるということです。
そういうわけで、私の「住まい」に関する
要求水準はその時に応じた
「機動性」と「機能」と
「家族の満足度」ということになるでしょうか?
また、70何歳かになったら
引っ越すことになるかも知れません!