佐世保は、第2の「ふるさと」と言って良いくらいに
昔から関係の深い町です!
それは、フェイスブックにも書いたように
母が佐世保市八幡町の出身で、
母の弟(野球をするため高校時代は私の母校の猶興館にいました)は
既にあの世の人になりました。
三川内の牛石に住んでいて当時は高校の事務長をしていた人です。
また、母の妹は昔警察官で
確か江迎署に勤務していた時は私の実家から
通っていたと思います。
それから、佐世保市木原にある横石陞治氏(前13代臥牛)に嫁ぎ、
今も元気で臥牛で仕事をしています。
だから、高校時代までは数数えられないくらい
佐世保にしょっ中来ていました。
しかし、佐世保駅から当時の国鉄「雲仙西海号」で上京して以来
大学時代の4年間とトヨタ東京カローラ時代の
8年間は佐世保は通過地点でした。
西彼(さいひ)バスか国鉄松浦線で田平に帰る待ち合わせ時間に
地下道の「お富さん」でチャンポンかラーメンを食べに寄るのがセイゼイでした。
それが、一変したのは家内と結婚するために
Uターンした後です。
先ほどの陞治氏の弟の現13代臥牛(横石嘉佶)のお嫁さんの兄さんが
長崎トヨタ自動車の金子逸雄社長と親友だったことで
佐世保市藤原町にある「長崎トヨタ佐世保支店」に
勤務することになりました。
昭和46年のことです!
それから、1年半勤めましたが、
昭和48年10月の第一次オイルショックがきたことをきっかけに
転職することを考え始めたのです。
というのも、父が公務員(田平町収入役~助役)だったのと
家内が公立学校の教師でしたし、
元々教師に憧れていたこともあって
昭和49年3月(1973年)長崎トヨタを退職して
大学に戻ることにしたのです。
(教職単位を7単位?)残していたためです。
3ヶ月前に文書で通知した後が大変でした。
当時の久富支店長に毎晩のように
勝富町に連れて行かれ
上げ膳据え膳が続いたのも
今となれば楽しい思い出です!
大人になってからのそんな日常でしたので、
佐世保の町にも様々思い出が
ギッシリ詰まっています!